ここで私が言う「ゆるい文」というのは、情報系サイトにあるような体系的でしゃきしゃきした文ではなく、主観的な話し口調で好きなことを自由に綴っている文のことだ。
昔ホームページが流行っていた時代に、自身も少しだけタグをかじって自分のページを設けたことがある。ミクシーが流行る前の時代だった。
特に役に立つ情報でもなく、ただただ、気の向くままにことばを綴ることを楽しんでいた。
時折訪れてくれる人とコメント欄で短い会話をするだけで、交流は少なかったけれど、それでも良かった。
誰かに見せたいものや話したいことを、何かしらの形で残し、それをどこかの誰かが受け取ってくれている、という事実だけで、その空間は私にとって十分に価値があるものだったのだ。
当時、誰かのホームページを訪れるというのは、ホームという文字通り、誰かのお宅におじゃまするような感覚があった。
体系化されていない自由に書かれた文を読んでは、どこかの遠い星に住む、名前も知らないその人とこっそり感性を共有しながら、一緒にお茶を飲んでいる気分になったものだ。
それはどことなく、小説の世界に浸る感覚と似ていた。昔、言語学の教授が言ったことばを今もずっと覚えている。「書き手と読み手は共犯者なのだ」と。
私たちは文を通じて、全く咎められない秘密の任務を密かに共有し、遂行しているのだ。
それは知識や思考、物語の共有であり、形而上的な空間における感性の交流を意味する。
私にとって、それはとても美しい行為に思えた。
自分が今も望んでいるのはそのような空間であり、対話であり、交流だ。
私はどこかの遠い星に住むあなたに向けて文を綴る。
他愛ないことを小さな世界でただ共有したいからだ。
例えるなら、川辺に座り込んで、流れていく景色をゆっくり一緒に眺めるような、そんな穏やかな関係をあなたと築きたい、と心から願っている。
どうか何卒、お手柔らかにお付き合いください。